国宝 大崎八幡宮
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八幡さま便り

■07号

鳩の声

【写真】八幡さま便り07号御鎮座390年を迎えた本年、数々の記念事業そして8月12日の御鎮座記念祭と雅楽の夕べ、また9月14日から3日間神賑行事を含めた御鎮座記念大祭をもって一連の奉祝の年を終えた。
氏子崇敬者の皆様方には多大なるご奉賛、ご参拝を頂き、昨年度から2ケ年に渡り執り行なわれてきた記念事業も無事完遂した。
これ偏に皆様方のお力添えの賜物と感謝する次第である、と共にまた新たなる年を迎へるのである。
さて、今年も早いもので年瀬となり当大崎八幡神社も12月13日の煤払いが終わるとお正月の準備も本格的となり、職員も大変有難いことに繁忙を極めるのであるが、この煤払いの言謂について、江戸城では師走13日に大掃除が行われていたことから、それを見習って江戸八百八町の町民もそれにならい大掃除をするようになり、この日を正月を迎へる準備の始まりとなったそうだ。
寛永5年(1628年)の正月元旦、江戸城石垣堀の普請課役のため江戸屋敷に住まいしていた藩祖伊達政宗公は、

「おさまれる みよのみぎりと としこへて 風もをとせぬ あらたまの春」

と賀歌を詠んでいる。
その政宗公の時代も今と同じく、お正月には欠かさず三方に「ゆずり葉・鏡餅・橙」を重ねたものをご神前にお供えし、新年をお祝いしていた。その橙は「代々家が続くように」という意味を含んだ語呂合わせと、この樹は一度実がなると7年間は実を稔らせ続けるそうで一族の繁栄を願うものと言われている。
氏子崇敬者の皆様方には平安のうちに新たまの春をお迎えできますようご祈念申し上げます。と、お宮の職員は心あらたにご奉仕に励んでいる。
(平成8年12月)


八幡宮Q&A

Q:仙台の守本尊信仰のこと、また大崎八幡神社は戌亥の神様と聞きましたが、その由緒について知りたいのですが。

A:仙台では古くから卦体神(けたいがみ)といわれる十二支の生まれ年の神を信仰する風習がありました。
「卦体」とは、辞書を見ると「易の卦にあらわれた算木の様子」とあり、算木による占いのことを示す意から転じて広く霊験、縁起をあらわすものとなりました。これに生まれ年の干支の十二支により、その人の卦体神がどこにお祀りされているかが定まり、これを信仰し加護をうけるというものでした。
平安時代中期から神仏習合の信仰は全国各地に広がり、仙台の卦体神は辰巳が太白区向山の愛宕神社、戌亥が当大崎八幡神社で二社以外の子・丑寅・卯・午・未申・酉の卦体神はいずれも仏教の寺院に守本尊として祀られています。
さて、仙台には多くの八幡神社が鎮座されておりますが、当大崎八幡神社は藩祖伊達政宗公が仙台領と城下繁栄祈願のため慶長十二年(一六○七年)造営された御社で、藩政期の仙台を記した書『残月台本荒萩』に「御城より乾(戌亥)に当りて・・・」とありこの方角に鎮座されたので、特に戌亥八幡様として信仰を集めるようになりました。
明治以降は神仏分離令によって神社の制度が再整備され当大崎八幡神社もそれに伴い信仰が確乎としたものになり、また八幡町は門前町として栄え古くは旧宮城町郷六、芋沢あたりから山菜、米穀、薪などが持ち運ばれておりましたが、この頃になると馬車を使って作並街道、芋沢街道を通って八幡町に入りさらに石切町、覚性院丁、土橋通(いずれも八幡町の旧町名)を通るなど賑わいを見せ、人々の活気溢れる生活の中でこの卦体神信仰が庶民の間に素朴なかたちで広まって言ったと考えられます。
このように仙台の守本尊信仰は神仏習合の信仰を包含しながらも江戸時代初期に城下町仙台に誕生し、現在まで根づよく続いています。

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