国宝 大崎八幡宮
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八幡さま便り

■14号

鳩の声

【写真】八幡さま便り14号昨今は「国際化時代への対応」が声高に叫ばれて、小学生はもとより、幼児にも英語教育を課す親が多いと聞く。近頃、国語審議会ではこの行き過ぎた他国語の早期教育は、自国語の習得に支障があるとして、十歳位まで日本語教育を優先すべきであると警鐘を鳴らしているが、世間がこれを聞き入れる気配は皆無である。だが、冷静に考えて欲しい。真の国際人とは、通訳なのだろうか。真の国際国家とは、国民総通訳という事なのか。通訳を貶める訳ではないが、必ずしも語学に堪能であることが、国際感覚豊かということに直結しない事は、明らかである。もちろん、外国語はその国の文化を理解する為に必須のものであるには違いないが、現代の我が国におけるそれは、単に打算と見栄の詰まった空疎なものとなりつゝある様である。
仙台藩祖伊達政宗公は、鎖国を目前にした世相のなか、支倉常長をはじめとする遣欧使節をローマへ送り、更に奥州とイスパニア(現在のスペイン)との間に通商平和条約の締結を画策していたという、自他共に認める当代一流の国際人であった。
政宗公は、その多彩な才能を豊臣秀吉に愛でられて、新時代を告げる絢爛たる桃山文化の花咲き乱れる京都において、多感な青年武将時代を送った。そしてその経験が後年、仙台開府の際に結実し、仙台城や大崎八幡宮をはじめとする荘厳華麗な大建築を生み出したのである。
しかしながら政宗公は、新文化の息吹を吸収に努めると同様に伝統文化の継承に熱心であり、その姿勢は詠歌において、良く顕わされている。

更衣(ころもがえ)
「桜色に 染めし衣を ぬぎかへて 山ほととぎす 今日よりぞ待つ」
和泉式部

「夏来ぬと 春の露の 衣がへ 待ちかねつるや 山ほととぎす」
政宗

和歌には、古歌の詞や心を巧みに自作へ取り込む『本歌取り』という手法がある。それはすなわち、藤原定家のいう「詞はふるきを慕い、心は新しきを求め」る事であり、遠い昔の祖先が築きあげた伝統的美観を下地に、現代の私達の新鮮な感受性を適切に添えていくという、日本独特の美風継承法である。そして桃山時代において、その重要性を誰よりもはっきりと認識していたのが、政宗公であった。

水無月祓
「夏果つる 禊に近き 川風に 岩浪高く 隠る白木綿」
定家

「禊せし ほどぞすずしき 夏かげや 清瀧川の 波の白木綿」
政宗

この様な、政宗公の新旧の文化に対するバランス感覚こそが、現在の日本人にとって何よりも必要とされているものではないだろうか。すなわち、時宜に応じて自在に行動し、戦国時代を堂々と生き抜いた政宗公の精神は、仙台開府後四百年を経て同じく混迷の時代に生きる、私達にとって何よりの指針となるに違い無い。

「道すがら 富士の煙も わかざりき 晴るる間もなき 空の景色に」
頼朝

「見ぬ人の 問はば如何にと 語りなむ いくたび変わる 富士の景色を」
政宗


八幡宮Q&A

Q:水無月の大祓式の起源や内容について、教えて下さい。

A:大祓式は古来より、人々が生活するうちに触れた穢れや犯した罪を祓い清める神事として、一年に二度、水無月(六月)と師走(十二月)とに執り行われて参りました。
何よりも清浄を尊ぶ日本人にとって、大祓式はとても重要な祭典であり、その起源は、遠つ神代の昔、日本の国土を造り固め成されました。伊邪那伎大神がその妻・伊邪那美大神を追われて黄泉の国へと行かれた帰途に、その時に触れた穢れを、筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原において禊ぎ祓えされましたという故事に依るものです。
水無月大祓は、六月三十日に執り行われ、この日は旧暦では夏の終わりにあたることから、夏越(なごし)の大祓とも呼ばれております。
水無月大祓式の奉仕祭員は、先ず清浄をあらわす注連縄を廻らせた、表参道脇の祓所に進み、参列者はこれに続いて祓所横に舗設された臨時齋場に着席します。
次に、祓主(はらえぬし)の神職が宣読する大祓詞に沿って、右綯えの縄・左綯えの縄の結びを口で解き放ち、切麻(きりぬさ)、人形(ひとがた)の形代で自身を拭い、最後に息を吹きかけたのち、これを祓い清めます。
こうして祓所における祓の後に、宮司以下神職・参列者は表参道正面に舗設された茅輪に向かい、これを左、右、左へと三度くぐります。
この様に、重ね重ね祓い清められていく事によりまして、知らず知らずの内に心身に蓄積された罪や穢れが祓い清められるのです。
ご参列をご希望される方は、当日受付まで、お越し下さい。
また、当日ご参列頂けない方につきましては、六月上旬より長床前に大祓受付所を設置し、人形・車形等をご用意しております。
皆様が心身ともに清々しく健やかになられますことを心よりご祈念申し上げます。

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