天長祭を斎行致しました
令和5年2月23日
祝日は社務所に国旗が掲げられます
令和5年2月23日午前10時より天長祭が斎行されました。
2月23日は今上天皇陛下の誕生日ということで、国民の祝日になっております。戦前の天皇誕生日は、「天長節」として制定されていました。
天皇陛下の御誕生日を祝う祭典が天長祭と呼ばれるのは、中国古典の『老子』に出典する「天長地久」という言葉に基づくものとなっているそうです。「天長地久」は「天は長く、地は久し」と書き下し文にて読むことができ、その意味は「天は永遠に続き、地は悠久の時を経る」となります。この四字熟語のように我が国の永久に繁栄することを願うことからつけられた祭典の名称です。天とは日本においては天皇を指す言葉として古くから使われてきました。
天皇誕生日に際しては以下の行事が行われています。宮中では、祝賀の儀、宴会の儀、茶会の儀、一般参賀を、伊勢神宮を始めとする各地の神社では天長祭を、海上自衛隊では、基地・一般港湾等に停泊している自衛艦において満艦飾(満艦飾とは、軍艦が祝祭日・記念日・式典等に際して祝意を表すために、艦首からマストを通して艦尾までの旗線に信号旗などの旗を連ねて掲揚して飾ること。)が行われています。また、外務省や在外公館では慣行的に日本の国家の日とされ祝賀行事などを行っているそうですが、いつ頃から開始されたかは不明だそうです。
その中でも、令和になり、コロナウイルス感染症の影響により中止を余儀なくされていた皇居における一般参賀が今上天皇即位後初めて行われました。天皇皇后両陛下、秋篠宮皇嗣同妃両殿下、愛子内親王殿下及び佳子内親王殿下が、3回長和殿ベランダにお出ましになり、事前抽選に当選した約4800名が参加されたようです。
当宮の天長祭では、天皇皇后両陛下の永久の祈りを仰ぎ、我が国の平安と世界の共存共栄とをお祈りさせて頂きました。
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8台の神饌がお供えされます | 宮司 祝詞奏上 |
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御神楽「浦安の舞」奉奏 | 遥拝所にて皇居を遥拝しました |
御神楽は浦安の舞が奉奏されました。浦安の舞は昭和天皇の御製にて作曲されたもので、日本全国各地の神社にて巫女舞の最高峰に位置付けられています。
舞人の執り物である檜扇と鈴ですが当宮では剣鈴を用いております。
剣鈴は、鉾が草薙の剣、鈴のついている面が八咫の鏡、鈴が八尺瓊の勾玉を象徴しており、三種の神器を表す「浦安の舞」のために作られた神楽鈴です。
また、檜扇は鶴松絵等が描かれており、扇の端には松・梅・橘の造花の装飾と陰陽五行説に基づいた長い6本の紐がつけられています。
皇室の益々の弥栄と国家の安泰をご祈念致しますとともに、陛下の御言葉にもありましたように、国民一人一人にとって穏やかな春を迎えられますようお祈り申し上げます。
祭儀課 浅香
令和5年ロイヤルパーク神殿例祭を斎行いたしました。
令和5年2月22日
令和5年2月22日、仙台ロイヤルパークホテル内の神殿にて例祭を斎行致しました。
仙台ロイヤルパークホテルは、平成7年に開業され今年で28年目を迎え、天皇や皇族の方々も仙台にお越しになる際は利用されるホテルであり、また、2002年のFIFAワールドカップではイタリア代表が宿泊施設として話題となり、国内外問わず親しまれているホテルであります。
ホテル内の神殿は、平成7年2月28日に遷座祭を斎行し、大崎八幡宮の御分霊がお祀りされて以降挙式奉仕等の際には当宮職員が出向し、ご奉仕をしてまいりました。
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献饌 | 御神楽奉奏「萬代の舞」 |
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祝詞奏上 | 神酒拝戴 |
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宮司 挨拶 |
宮司挨拶の後、神酒拝戴を受け、本年の例祭は滞りなく斎行いたしました。2年後には仙台ロイヤルパークホテルを開業して30周年を迎えます。
これからも仙台を訪れる人々にとってロイヤルパークが安らぎの地となりますよう、また、社運隆昌、社員一同のご健康とご多幸をお祈りいたします。
祭儀課 浅見
令和5年祈年祭を斎行いたしました。
令和5年2月17日
去る2月17日祈年祭が斎行されました。祈年祭の起源は極めて古く、天武天皇4年(675)に成立されたと言われています。
『日本書紀』に天照大御神が斎庭の稲穂を天孫瓊瓊杵尊に授けられたことが記されており春に豊作を祈り、秋の収穫に感謝する稲作を中心とした営みを、日本人は2000年以上繰り返しており、「米」はとても重要なものでありました。
また、祈年祭は春の耕作始めにあたり、五穀豊穣を祈るお祭りで、「としごいのまつり」とも呼ばれます。「とし」とは稲であり、「こい」は祈り、お米を始めとする五穀の豊かな稔りを祈ることを意味しております。
玉串拝礼
農耕が生活の中心であった時代、豊作を祈ることは国家の安泰、国民の繁栄を祈ることでした。そのため祈年祭は国家規模で執り行われており、現在でも全国各地の神社で祈年祭は行われており、五穀豊穣。そして国家の安寧、国民の繁栄を祈願しております。
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また、当宮では祈年祭にて新年度採用の仕女二名に参列して頂きました。緊張した面持ちで先輩仕女の舞を憧れの眼差しで見つめておりました。また、祭典終了後は装束の採寸を執り行いました。
この年が祭典の意義通り五穀豊穣、産業発展いたしますよう祈念いたします。
祭儀課 浅見
紀元祭を斎行致しました
令和5年2月11日
雪化粧が施された御社殿
令和5年2月11日午前9時より御社殿にて紀元祭が斎行されました。
この日は「建国記念の日」として祝日となっていますが、戦前は「紀元節」という名前で、四大節の一つとして「国民の祝日」に制定されていました。
四大節とは、1月1日四方拝(宮中行事で宝祚の無窮・天下泰平・万民安寧を祈る儀式)、2月11日紀元節(現在の建国記念の日)、天長節(今上天皇の誕生日)、11月3日明治節(明治天皇の誕生日)の4つの総称でございます。
紀元祭の斎行される2月11日は、初代天皇である神武天皇の御即位の日(紀元前660年2月11日)であると伝えられております。
現在、わが国では、和暦・西暦が一般的には使用されていますが、西暦がイエスキリストの誕生を始まりとして数えられているのに対し、同じように“あることを始まりとして数えられている暦”が存在します。それは、神武天皇の御即位の日を元旦として数える「皇紀」です。今年は、皇紀2683年となり、これが我が国の年齢とも言えるでしょう。
この御即位に関しては日本書紀に書かれていますが、日本書紀が編纂された時代と現在では暦法が異なっており、それを解き明かしたのは、江戸時代の神道学者・渋川 春海です。
この人物が編纂した「日本長暦」という書物に基づいて西暦に当てはめ直したものが、現在いわれる紀元前660年2月11日という日にちになるとされています。
祭典当日は、仙台地方で8年ぶりとなる20センチメートル以上の積雪となり、早朝より職員総出で雪掻きをしました。しかしながら、祭典斎行時間には、太陽も顔を出し、雪解けの雫が春を予感させる陽気となりました。
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当宮社殿前は17.5cmの積雪でした | 湿り気を多く含み、重い雪でした |
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祝日は社務所に国旗があげられます | 修祓は殿内で行われました |
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御神楽奉奏「浦安の舞」 | 宮司 玉串拝礼 |
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遥拝所にて神武天皇を御祭神として祀られている橿原神宮を遥拝しました |
まだまだ寒い日が続きますので、御来社の際は参拝の折には暖かな服装で足をお運び頂けたらと存じます。
祭儀課 浅香
節分祭・福物撒豆式が斎行されました
令和5年2月3日
令和2年以来の鬼の登場となりました
令和5年2月3日午後3時から御社殿にて節分祭の神事、神事終了後には社殿前にて撒豆式、午後4時から馬場の特設舞台より福物撒豆式を斎行致しました。
節分祭とは、厄を祓い新春を迎える神事でございます。現代では立春の前日を指し、本年は2月3日がその日となりました。
また、節分と言えば豆撒きが連想されますが、それは大祓の日の夜に、災厄の元凶となる鬼を祓う為に宮中で行われていた「追儺」という儀式からきております。
豆を撒くようになったのは、宮中より民衆に広まった室町時代といわれています。日本人は古来より穀物を尊ぶ傾向にあり、特に大豆はその利便性の良さから米と共に重要な穀物とされてきました。
大豆の豊かな生命力が鬼を追い払うという信仰に繋がり、豆(炒り豆)を撒くようになったそうです。生の豆を撒かないのは、豆の芽が出ると災いが広がるという考えからと伝えられています。
そしてその豆(炒り豆)の活力を頂戴し、歳の数だけ食べると一年間無病息災であるという意識が浸透して、厄年のお祓いと新春を迎える神事として定着しました。
当宮での節分祭の始まりは、東一北振会(現:一番町四丁目商店街振興組合)の皆様の存在でした。八幡町出身の加藤英三郎氏は商店会役員様の多くが戌年生まれという事で商店会の皆様に声掛けを行い、昭和22、23年ごろより戌年生まれの守護神且つ仙台総鎮守の当宮へ、毎年参拝されておりました。
時がたち戦後の混乱期も落ち着いたとはいえ、青少年育成の機運も未熟な時代に「子ども達に野球ボールの一つでも配れれば」との思いから当宮及び氏子総代との協議の末、昭和33年(戌歳)より「大崎八幡宮節分祭」を斎行することとなりました。
当日は午後3時より御社殿にて神事が斎行されました。神事の中では、弓と鏑矢を用いて弦を鳴らし、鬼を追い払う鳴弦式や、御神楽「萬代の舞」の奉奏、振り鈴の儀などが行われました。
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福豆も神饌としてお供えされました | 宮司 祝詞奏上 |
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鳴弦式 | 御神楽奉奏「萬代の舞」 |
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振り鈴の儀 | 当宮 責任役員の玉串拝礼 |
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地域諸団体の方の玉串拝礼 | 奉納者代表の方の玉串拝礼 |
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一番町四丁目商店街振興組合の方の玉串拝礼 | 職方代表の方の玉串拝礼 |
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年男・年女の方の玉串拝礼 | 崇敬者の方の玉串拝礼 |
引き続き、社殿前にて撒豆式を執り行いました。祭典に参列された54名の方々と宮司以下祭員6名が当宮の焼印が入った一升枡から福豆を撒きました。
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加藤義永刃物店 加藤義靖殿の掛け声にて福豆が撒かれました |
その後、馬場特設祭場にて、福物撒豆式が執り行われ、こちらも大盛況でございました。「福は内、福は内、鬼は外、鬼は外、天打ち、地打ち、四方打ち、鬼の目ん玉ぶっつぶせー」とかけ声が掛けられて撒かれる当宮の習わしです。
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馬場の特設舞台前には多くの人が集まりました |
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皆さんのお目当ては大当たりのボールのようです | 皆さん福物を見て喜んで下さいました |
伝統文化の継承が我が国の更なる発展につながりますことをご祈念申し上げます。
祭儀課 浅香
如月月首祭を斎行致しました
令和5年2月1日
正月の仮設賽銭箱が撤去され、節分に向けて準備が進む御社殿
令和5年2月1日午前10時より御社殿にて月首祭を斎行致しました。
日々の大神様のご加護に感謝し、世界の安寧を祈念する月首(次)祭は、毎月1日と15日に斎行しております。以下、祭典の様子でございます。
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祓所にて修祓 | 宮司一拝 |
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御神楽「萬代の舞」 | 宮司 玉串拝礼 |
月首(次)祭は、どなたでも参列できますので、祭典開始15分前までに社殿右側の祭儀棟までお越しください。参列された方には撤下品として、月参り幣束をお渡ししております。月参り幣束は毎月異なる色目にて奉製されており、季節の草花をモチーフとしております。如月は柊(緑・白)の色目でございます。
柊の花言葉は「先見の明」「用心深さ」だそうです
今回の月首祭には今月より奉職となります新人仕女1名と一般参列者2名が参列し、玉串拝礼をしていただきました。
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参列者の玉串拝礼 | 森仕女の玉串拝礼 |
以下、新人職員より一言ご挨拶申し上げます。
森仕女
令和5年2月1日より仕女としてご奉仕させて頂きます、森と申します。まだまだ慣れない事も多くありますが、一生懸命努力して参ります。何卒、宜しくお願い致します。
新たな鳩子の仲間入りでございます。あたたかいご指導・ご鞭撻のほどよろしくお願い致します。
祭儀課 浅香