十二軒丁・愛宕神社例祭斎行(7月19日)

去る7月19日(日)、当宮小野目宮司が兼務する愛宕神社(仙台市青葉区八幡1丁目・十二軒丁鎮座)の例祭が斎行されました。

前日まで天候が優れず、この日も曇ってはいましたが、愛宕神社の役員さんや十二軒町の親交会の方々、町内会の子供たちや保護者の皆様の参列のもと斎行されました。

宮司による祝詞奏上、巫女による「浦安の舞」奉奏、役員総代さん、子供会代表が玉串拝礼をし、一年に一度の例祭をお祝いしました。

その後、町内の神輿渡御となりました。

また、今回初めて一人で舞った「浦安の舞」はなかなか覚えられず、前日になっても上手く舞う事が出来ませんでした。練習とは全く違う環境での舞なのでとても緊張しましたが、間違うこともなく、やりきったという思いでいっぱいです。

普段は静かで落ち着いた境内ですが、この日ばかりは地域の方たちが訪れ、大変賑やかな1日となりました。

(近藤 真由)

御輿を担ぐ町内の子供たち 巫女による「浦安の舞」奉奏
 
ワッショイ! ワッショイ!
樽御輿を担いで町内を巡行しました。
 

平成27年 文月 月首祭斎行

大學愛海仕女 祭典初奉仕

去る7月1日、午前10時より月首祭が斎行されました。

今年は仙台の梅雨入りが遅かったですが、当日は梅雨らしい雨の中、祭典が執り行われました。

八幡宮の仕女は神楽舞の稽古に日々精進しており、年間の祭典行事では舞の奉奏をしております。

今回の祭典では今年4月に入社した大學仕女が初めて奉仕いたしました。祭典を執り行った後は「初めての月首祭でとても緊張しましたが、最後までやり遂げることができました。また次の祭典では緊張せず美しい舞を奉仕できるよう稽古に精進し、祭典行事に励みたいです。」と今後の抱負を語ってくれました。

日下先輩との舞奉仕 のびのびとした大學仕女の舞姿
祭典奉仕が終わり、ほっとしました。
社務所前にて宮司と日下仕女と記念撮影
右側が新人の大學仕女です。これからも宜しくお願い致します。

杉田晋平出仕辞令伝達式

7月1日月首祭が斎行された後、八幡大神様大前で杉田出仕に、職務辞令が手渡されました。

御社殿内、八幡様大前で辞令交付が行われました。

杉田晋平出仕

杉田晋平出仕は「出身は横浜の戸塚で、以前は神奈川県の鎌倉の神社で奉仕しておりましたが、今年4月より三浦郡葉山町堀内鎮座「森戸大明神」でお手伝いをさせて頂き、このたび、ご縁あって大崎八幡宮で出仕の任を頂く事となりました。

しかし神職の出発は三十代を超えてからであり、奉職経験は浅く、日々精進してゆく覚悟でまいりました。何十年も奉仕なさっておられる先輩方をはじめ、年間の祭典行事に携わる巫女さん方、なにより大切な日々の奉仕を通して学ぶことが多く気を引き締めて務めに励む所存です。不甲斐ない点が多々あると思いますが、日々修正し反省を顧みながら前向きに務めに全うしていきたいと思います。どうぞ宜しくお願いいたします。」

水無月の大祓

松焚祭イメージ平成27年6月30日、
午後三時より大崎八幡宮水無月大祓式を齋行いたしました。

古い歌に「水無月の夏越の祓いする人は千歳の命のぶとこそあれ」とあり、六月の夏越のお祓いを受けると延命長寿をすると信じられてきました。

大祓の起源は古く、スサノオノミコトが高天原を追放された古事記の神話に遡ります。また古事記によると、当大崎八幡宮のご祭神の一柱でもあられる神功皇后は、ご主人の仲哀天皇が崩御なされたとき、死の穢れを祓うために、国としての大祓いの行事をしたことが記されています。

この、国を挙げて行われるこの大祓いの目的とはひとことで言うなれば、一切を祓い清めることにあります。上代から連綿とつながる天皇の祭祀が厳密に行われるためでもありました。

大祓は年に二度、6月と12月の晦日の日(6月30日、12月31日)に行われています。

大晦日の大祓は新しい年を迎え、歳神さまや祖霊を祀る準備でもあり、6月の大祓いもこれに準じて考え、半年間(1月から6月まで)に、知らず知らずのうちについてしまいました罪や穢れを祓う日本人としての伝統文化の中でも大切な儀式です。

式次第当日早朝は、祓戸の舗設から始まり、宮司以下祭員が号鼓とともに参進し斎場へ向かいます。
参列者は、受付ののち、斎場指定の座に着き、祭員の到着を待ちます。
また待つ間に神職から大祓いの作法である「解き縄、切り麻、人形」の説明を受けます。
さあ始まりです。開式後、「解き縄、切り麻、人形」の入った紙包みを頒ちます。
参列者全員が紙包みを受け取ったら、祓主には大祓詞を奏上します。

この「大祓詞」はおよそ十種の内容で構成され
<前文><神話><天つ罪・国つ罪><天つ宮事><天つ神・国つ神>
<減罪宣言><祓の比喩><神々の持ちわけ><後文>から成り、
高天原から始まる神話の部分から宣読されます。

神話の部分は<神議り><神勅><語問ひ、神掃ひ、語止め>
<天孫降臨><安国(大倭・日高見国)>などに触れ、
なかでも、この神話に続き「皇御孫命のみづの御舎仕え奉りて」と、宮殿造営が語られ、
そこで「天の御蔭、日の御蔭と隠れ坐す」と唱えます。
つまり皇居(お宮)が参籠の大切な場であり、上代の祭政一致の祭祀の重要性を示しています。

大崎八幡宮は伊達政宗公の仙台開府に伴い
1607年(慶長12年)に造営され、
平成16年に保存修理事業「平成の大修理」を経て、
現在も仙台総鎮守として先人たちの祈りの深さを継承しています。

大祓詞は古来の考えに沿って「天つ罪、国つ罪」を数え上げ、
その祓われてゆく様を言い立てます。
つまり「大祓詞」の言霊には祓の働きが備わっており、
これを朗々と唱えれば祓の神々の霊力が発動し、
国全体が清められて蘇生すると言い伝えらて来たものです。

参列者は胡床に着座したまま、
頒布された紙包みを左ひざの上に載せて広げ大祓詞の
「へ解き放ちとも解き放ちて」の時に、
まず左なえの麻縄を取り、口でほどき右肩越しへ投げます。
次に「右なえの麻縄」を同様に口でほどき左肩越しに投げます。

次に切り麻(紙吹雪のようなもの)を取り、
肩越しに自分の身体に左、右、左と三度撒きかけて祓います。
大祓詞宣読のあと「人形(ひとがた)」で身体を撫で息を吹きかけて罪穢を移し、
紙包みに入れて閉じます。
祭員が「人形」を集め三方にのせて唐櫃に納めます。

最後にお祓いをし、祓い終わった大麻も唐櫃に納め蓋を閉じます。
お祓いののち、茅の輪をくぐり、社殿を参拝します。

今年度は宮司よりの挨拶、参列者への特別な授与品についてのご説明もありました。

次に「茅の輪」をくぐります。「茅萱」の旺盛な生命力が穢れを祓い、
人々に活力を与えるとされてきています。

茅の輪の由来は古く、「蘇民将来神話」に於いては、
茅の輪飾りを腰に結びつけたものは、病・怪我などのさまざまな禍から護られたという話もあります。
茅の輪のくぐりかたは、まず、①左側へくぐる
次に、②右側へくぐる
再度、③左側へくぐります
最後に、まっすぐ潜り抜け、御社殿に進み参拝します。
社殿前は大きな光に包まれていました。
毎年、天候が懸念される時季ではありますが
幸いにも雨に降られることなく、無事に大祓式を執り行うことができました。
御社殿前にて拝礼。
多くの参拝者のみなさまに、ご参列いただきました。
今年の下半期に向けて、身の回りを整理し、
心身ともに清々しく夏を越え、向こう半年を過ごしましょう。
式次第当日早朝は、祓戸の舗設から始まり、宮司以下祭員が号鼓とともに参進し斎場へ向かいます。
参列者は、受付ののち、斎場指定の座に着き、祭員の到着を待ちます。

祭典終了後に社務所で記念撮影する高橋知生権禰宜

今回、初めて斎服を来て祭典をご奉仕しました。
当宮では祭員が着る袍(ほう)を、一人で着装しなければなりません。
まだ斎服を一人で着る際、上手く着れないので上席の方にお手伝いしていただき着装しました。
祭典途中に装束が乱れてこないか心配でした。
特に袍が崩れたりもせず無事に祭典を執り行うことができて、ほっとしました。
早く一人で袍を綺麗に着れるように装束の練習を頑張りたいです。
高橋 知生

大祓いは数あるお祓いの中でももっとも重い祓の儀式であり、 恒例である六月十二月のほかに、臨時の大嘗祭、または人の力の及ばない天変地異が起こった時などにも行われてきました。大宝令により6月と12月の大祓が恒例となり定められ、平安期には京都御所の朱雀門において宮中祭祀を司る中臣氏によって行われています。 ことときに唱えられた大祓詞は、中臣祓詞、中臣祭文などと呼ばれて広く用いられています。

7月1日

「このたび、ご縁あって大崎八幡宮へ出仕の任を賜ることになりました杉田晋平ともうします。出身は横浜の戸塚で、以前は神奈川県の鎌倉の神社で奉仕しておりました。
しかし神職の出発は三十代を超えてからであり、神職経験は浅く、日々精進してゆく覚悟でまいりました。何十年も奉仕なさっておられる神職の先輩方や、経験豊かな神職巫女さんの年間の祭事、なにより大切な日々の奉仕を通して学ぶことが多く気を引き締めて務めに励む所存です。不甲斐ない点が多々あると思いますが、日々修正し反省を顧みながら前向きに務めに全うしていきたいとおもいます。どうか宜しくお願いいたします。」

宮城県文化財所有者連絡協議会総会並びに、
春季研修会(宮城県村田町)に参加いたしました

去る7月2日、宮城県文化財所有者連絡協議会(宮文連)の総会並びに春季研修会が。宮城県村田町ヤマニ邸にて行われました。

宮文連とは、宮城県内における文化財を所有している神社・寺院・個人から組織される団体です。大崎八幡宮は御社殿が国宝に指定されております。このような団体に参加する事で、それぞれが持っている知識や悩み、解決方法などを共有する事で文化財保持に努めております。

今回は、宮城県教育委員会文化財保護課課長 笠原信男氏、村田町教育委員会教育長 髙橋郁夫氏を御来賓とし、総会並びに研修会が開かれました。

研修先である宮城県村田町は宮城県内で唯一、「重要伝統的建造物群保存地区」(伝建地区)に指定されています。伝建地区とは「周囲の環境と一体をなして歴史的風致を形成している伝統的な建造物群で価値が高いもの」とされていて、その多くは西日本地域にありますが、東日本の有名地として埼玉県川越の商家町があります。

今回宮文連会員は、村田町に残る蔵を見学に行ってきました。
「江戸時代の地割から細長い敷地を基に、店は表通りに沿って建ち、住まいである主屋はその背後に棟を違えて接続します。更に、敷地の奥に向かって、物品を収蔵するための土蔵等が立ち並びます。これら建築物は決まって北側に寄せて建て、南側に石畳の外通路を配します。」とあり、説明を受けながらの町屋一帯を見学いたしました。

仙台市街から車で30分というアクセスの良さと、指定された区域に広がる「蔵の街並」は、近隣の田園風景と相まってとても情緒豊かでした。

これら「蔵の街」が伝建に指定され、定着するまでの期間、これを維持する為に必要な大工・左官・瓦職人・石工等の職人の確保の問題が浮上します。管理、維持してゆく諸問題は、宮文連が抱える問題と同じです。官民変わりなく、文化財を保存する為に行動を起こさなければならないと、強く感じました。

(庶務課 小野目 稲美)

総会会場の村田町「ヤマニ邸」。 大広間をお借りして総会を開きました。
総会後の勉強会は、村田町歴史未来館の石黒氏。 舗装のされていない村田町の街並み。
昔の葬儀の写真です。
村田町のゆるきゃら「くらりん」パッケージのお弁当。 お寿司屋さんが作ってくださったお弁当です。
村田商人やましょう記念館を見学しました。 お店の中です。工学博士の伊藤様にご説明頂きました。
皆、熱心に見学しております。
重厚な柱は、村田商人の財力の誇示だそう。 土蔵の扉を・・・!奥に進みます。
お店の奥は、主屋があり、二階建ての回廊になっていました。
また土蔵が続き、更に部屋があります。 外の門から覗くと奥行きが深く、引き込まれます。
お店の土蔵と主屋をつないでいるのがわかります。 主屋は木造で、情緒豊かです。
村田商人の土蔵が続きます。 奥まった町並みは江戸時代の地割を伝えます
ヤマニ邸隣りのお土産物屋の奥は、休憩所として開放。
かつて村田町が京都や大阪と取引していた商品に因み「柚子サイダー」と「ひやしあめ」がありました。
初夏のひととき、美味しくいただきました。