第5回 雅楽の夕に、「雅楽の夕に、」が行われました。

権禰宜 小野目 稲美

8月12日の御鎮座記念祭の翌日、13日の午後4時から大崎八幡宮の境内で「雅楽の夕に、」が開催されました。平成23年に発生した東日本大震災以降、未だ被災地の復興は遂げられず、また心に傷を負った人々の為に始まったこの「雅楽の夕に、」は、早くも5回目を迎える事となりました。

当日は生憎の空模様で、午前中は雨脚が強く、開催の有無の問い合わせを多くいただきました。それだけ多くの方の御関心を頂いていると、職員一同、会場舗設の変更に励みました。

「雅楽の夕に、」の演奏曲目は、雅楽曲の太食調音取(たいしきちょうねとり)・合歓塩(がっかえん)に始まり、芝祐靖氏復曲の曹娘褌脱(そうろうこだつ)・芝祐靖氏作曲の信濃情景(しなのじょうけい)と演奏されました。

次に、歌のワークショップとして、大崎八幡宮「青葉の舞」の歌詞「入りそめて」を会場の皆様と合唱し、その歌に合わせて「青葉の舞」が舞われました。皆様毎年ご参加されているようで、歌詞やリズムなどなめらかな歌いだしで、会場全体が一体となり、御神楽を奉納頂きました。

また本年のお話では、当宮宮司 小野目博昭、宮田まゆみ氏が司会進行とし、宮城県山元町鎮座 八重垣神社宮司 藤波祥子様、宮城県石巻市雄勝町鎮座 葉山神鎮座 千葉秀司様、宮城県石巻市雄勝町桑浜鎮座 白銀神社総代長 永沼 善八郎様を迎え、被災神社の現状をお話し下さいました。

藤波宮司は「震災では、社殿・社務所など全て流されました。周りには何もありません。考えたのは、社殿や社務所は、数年かければ再建できるかもしれない。でも、鎮守の杜は100年200年と長い時間をかけて樹を育てていかなければなりません。まず、植樹祭を行いました。当初は50㎝程の苗木が、今では私の背丈を超えるくらい成長しています。また、御社殿も支援を頂き、建設工事が始まりました。今できる事を行い、未来へ託す思いです。」とお話し下さいました。千葉宮司からは「震災当時から(大崎八幡宮の)支援を頂き、葉山神社の社殿竣工祭が9月に行われることになりました。」とご報告頂きました。また、大崎八幡宮宮司が白銀神社の例祭に参列した際、地元を離れた若い家族諸々が帰省し、篤い信仰心を以てお祭りに参加している姿を目の当たりにしました。それは「神社が、世代を超えて地域を繋ぐ共同体の中心を表した姿。」だととても感銘を受け、白銀神社の総代長をお呼びしました。

パネリストの皆様には震災から5年たった現状、これからの課題などをお話し頂き、会場からは当時を思い馳せ、涙ぐむ人の姿も見受けられ、私たちも初心に戻る気持ちとなりました。

続いては、会場皆様の歌のワークショップ「越天楽(えてんらく)」唱歌を歌い、その歌に合わせて一般の雅楽器演奏者の方達と合奏をいたしました。一般参加者は15名ほど、宮城のみならず、東北・関東・遠く福井、外国からはドイツから駆けつけて下さいました。合奏曲は、越天楽・双調音取・胡飲酒破・武徳楽を合奏し、最後に大崎八幡宮神前神楽 萬代の舞を仕女4名が舞いました。

被災者の心に寄り添う為に始まった「雅楽の夕に、」はその思いを未来へと託し、これからも続けてまいります。

雨の為、急遽会場を室内に設けました 拝観のお席は、屋外にテントを張り対応
状況が悪い中、多くの拝観者がいらっしゃいました 芝祐靖先生による復曲の解説と伶楽舎・宮田まゆみ氏
伶楽舎の皆様の演奏です
宮田氏が吹いている楽器は笙より大きい「竽(う)」
芝祐靖氏による、独奏
伶楽舎・中村かおる氏による歌の解説 仕女の参進に合わせて合奏・合唱しました
被災神社の現状を皆様にお話し頂きました 会場の皆様は静かに拝聴下さいました
一般参加者による雅楽演奏 皆様優雅な音色を奏でて下さいました
狭い舞台での巫女舞奉奏となりました 会場が一体となり、八幡様に雅楽を奉納いたしました

御鎮座記念祭が執り行われました

権禰宜 小野目 稲美

平成27年8月12日午後6時30分より、御鎮座記念祭が執り行われました。

仙台市青葉区八幡の地に、仙台藩祖伊達政宗公により八幡様が遷座されたのが慶長12年8月12日、今から408年前の事です。大崎八幡宮では平成8年から御鎮座記念祭を斎行し、今年で20回を迎える事となりました。

彼の時、御祭神が八幡宮に正遷座された時と同じように、浄暗(暗闇)のなか神事が粛々と執り行われる様を、凡そ300名の方が厳かに参列致しました。

祭典の途中には、御祭神に雅楽を奉奏いたしました。大崎八幡宮神職・仕女のみならず、雅楽演奏グループの「伶楽舎」の皆様による、雅楽・神楽舞の奉納があり、雨上がり夕暮れ時に篝火が灯され、境内には幽玄な雰囲気が立ち込めました。

演目1曲目は「今様 白薄様(いまよう しろうすよう)」、2曲目「管絃 太食調音取(かんげん たいしきちょうのねとり)、傾盃楽急(けいばいらくのきゅう)」と雅楽演奏が続きます。

3曲目は、「神前神楽 青葉の舞(しんぜんかぐら あおばのまい)」です。大崎八幡宮独自のこの舞は、伊達政宗公が仙台藩開府にあたり読んだ

入りそめて 国ゆたかなるみきりとや 千代とかきらし せんたいのまつ

この句に、伶楽舎音楽監督の芝祐靖氏に曲、笙演奏者の宮田まゆみ氏に舞振付を依頼した巫女舞です。御祭神の神功皇后・仙台藩祖伊達政宗公に相応しい勇壮な舞を、八幡宮の仕女が舞いました。

4曲目は、「御神楽 其の駒 人長舞(みかぐら そのこま にんじょうまい)」。これは宮中御神楽の最後に演奏され輪榊を手に取り舞を舞います。

その駒ぞや 我に我に草乞ふ 草はとりかわん 水はとり 草はとりかわん

5曲目は、「神前神楽 浦安の舞(しんぜんかぐら うらやすのまい」です。昭和15年に皇紀2600年を奉祝して、舞が作られました。昭和天皇が世界平和を祈り詠まれた御製をあてられ、前半は扇・後半は鈴の舞からなっています。

大崎八幡宮では、その年に入社した仕女が主に舞う舞となっていて、本年も2名の新人・先輩2名の4人舞でご奉仕いたしました。

天地(あめつち)の 神にぞ祈る 朝なぎの 海のごとくに 波たたぬ世を

6曲目は、「退場音声 長慶子(まかでおんじょう ちょうげいし)」 平安中期の龍笛と琵琶の名手、源博雅によって作られたと伝えられています。節会や演奏会の終わりに、退出の音楽として演奏される機会が多い曲です。

以上の演目が終了し、祭典はすべて終了致しました。

宮司以下祭員が退下の後に照明が点けられましたが、明るくなった境内には、なお余韻に浸る参列者の方が多くいらっしゃいました。

以下、御鎮座記念祭に初めて奉仕した仕女の感想です。

舞を御祭神に捧げる事が、当宮仕女の一番大切なお勤めです。御鎮座記念祭を経験し、心身共に仕女としての信念が身に付いた彼女たちのこれからを宜しくお願い致します。

―仕女 近藤 真由 ―

御鎮座祈念祭で舞を奉奏し、改めて巫女というお仕事の中で、舞がどんなに大切なものであるかを実感しました。

また、初めて大きな舞台での舞の奉奏で、さらに装束も初めて着るものだったので、なかなかうまく舞う事が出来ませんでした。

これからあるさまざまな祭典で、今までよりも上達した舞を奉奏できるように、頑張りたいと思います。

―仕女 大學 愛海 ―

8月12日の御鎮座祈念祭で初めて大きな舞台で浦安の舞を奉奏しました。

夜の暗い中の舞の奉奏は、とても幻想的で昼間とはまったく違った雰囲気でした。また、いつもとは違った大きな舞台での舞は、とても緊張しましたが、無事に御鎮座記念祭を終えることが出来て本当に良かったです。

今後も祭典はたくさん続くので、これからも日々奉仕に励んでいきたいと思っています。


白丁装束の篝火係が火を灯します
御鎮座記念祭の祭典中

青葉の舞の奉奏
萌黄色の装束を身に纏い、真榊を手に取ります
青葉の舞
菖蒲の花を手に取り、舞います
人長の舞 人長の舞
炎が高々と燃え上がる様に、御神威を感じます。

浦安の舞
4人の息を合わせ、舞を御祭神へ捧げます
浦安の舞
扇を手に取り、優雅に舞います

金華山 黄金山神社に小型船舶をご寄贈しました

平成27年8月4日

去る8月4日、東日本大震災の震源地に最も近かった金華山・黄金山神社に「小型船舶(ヤマハSRV・23f)・1艇」と「宅配便受取用プレハブハウス・1棟」をご寄贈申し上げました。

ご承知の通り、金華山は宮城県北部・仙台湾の北にありこの度の大震災では震源地に最も近い場所に鎮座しており、その被害は甚大なものがあり表参道の崩落や灯籠・手水舎の倒壊、金華山港の地盤沈下などその被害は想像をはるかに超えるものがありました。
しかしながら、その復旧・復興には未だ手つかずの場所もあり長い時間を要することが予想されております

その第一の原因は、「神社は宗教法人だから。」との事の様で、行政の復興事業から切り離されているようですが、それでも「宮司さん以下、職員3名。」が金華山に住民登録しており重ねて宮司さんが「金華山区長」をしておられるという事実もあり、「離島振興支援」等の行政の支援策がないものか、何かできないかの知恵をお借りしたいものです。

金華山は、本州(牡鹿半島)との最接近場所はその距離6~700m程ですが、その間にある「金華山瀬戸」の潮流は早く、天候が安定せず針路を誤れば座礁する危険もあるといわれてますし、その遥か東方はアメリカ大陸があるのみという孤島です。

その金華山に鎮座する黄金山神社は古来より「東北三霊山」ともよばれ東北各県より多数の崇敬者が参拝する神社として、また南三陸国定公園の観光の名所として著名な御社でありますが、震災後は長らく定期船の運行が休止し、今春になりやっと鮎川浜と女川浜からの定期船が運行されるようになりました。

しかしながら、その運行は日曜日と祝日に限られ、職員の出勤退社や参拝者の非常時の対応など渡海用の移動手段がなく苦慮しているとのことでした。

当宮の宮司は、震災直後より以上のような事態は予想していたようで、直後より「金華山に船を送ることができないか。」と情報収集にあたり、塩釜市内で被災したプレジャーボートを取得し、清掃・修理・艤装を繰返して整備保管していたものを、2月下旬に奥海宮司さんから、「平成26年度で金華山港の岸壁整備工事が終了したので、以前お話し頂いた船を支援頂きたい。」との申し出でがありこの度の「船舶ご寄贈」となりました。

奥海宮司さんは、「通常の移動には、東京都神社庁の下谷神社 阿部明徳宮司さんよりの支援船を使っているが、これから迎える台風の季節や波・風が強い時には危険が伴い、遭難の危険すらあった。この度の『おとひめ丸』(※)は、多少の波でもずぶ濡れになることがないようだ。参拝者の非常時の救急搬送などいろいろと活用させて頂きたい。職員もホッとしているようだ。」とお話しされていました。

また、大崎八幡宮で搬入した「宅配便受取施設用プレハブハウス」は、予て当宮が支援した山元町高瀬鎮座 八重垣神社に寄贈したものでしたが、八重垣神社さんでは「授与所」と「神輿殿」を新築なされ不要となった。とのことで、「黄金山神社さんで使って頂ければ。」との八重垣神社 藤波祥子宮司さんのお申し出でもあり搬送設置させて頂いたものです。

当宮の宮司は「斯界でも『絆』とか『共生』や『お互い様』などの言葉が生きている。被災した神社の『震災を乗り越えようとする気持ちを打ち砕くことなく被災神社への支援活動は継続して行きたい。」と言っており、「八幡宮が継続して支援活動をやって来た甲斐があった。」と話していました。

大崎八幡宮では黄金山神社さんには、この先「係留用アンカーの設置」や「船舶上架用施設の整備」など黄金山神社の復興支援の一助になればと考え引き続き支援活動を継続してまいります。

※「おとひめ丸」;前宮司 奥海 睦名誉宮司が名づけ親。この度の船舶は「おとひめⅤ世」と名付けられました。
尚、名誉宮司さんにあっては、平成27年2月23日帰幽されました。当宮宮司が学生の頃、大変お世話になった方であり、この度の支援活動で少しく恩返しができた。と言っております。

奥海名誉宮司さんのご冥福をお祈りいたします。

午前8時30分役員総代と職員の家族を含め、
総勢18名で、駐車場を出発役員
女川よりチャーター船で出発
震災前同様にウミネコのお出迎え 女川出航より25分 金華山が見てきました
今回寄贈する「おとひめ丸」 早速、岸壁で清祓の儀を斎行①
早速、岸壁で清祓の儀を斎行② 鍵と譲渡証を奥海宮司さんにお渡ししました
金華山の神様のお使い
「神賜暇」のお出迎えを頂きました
御社殿大前にての奉告祭の様子
宮司玉串拝礼 奉告祭終了後の寄贈書贈呈①
奥海宮司さんと② 奥海宮司さんより感謝状を頂きました
お直会での奥海宮司さんより感謝のお言葉を頂きました
小野目宮司より活用依頼の御挨拶を申し上げました 奥海宮司さん以下職員のお見送りを頂いて
金華山を出航
五色のテープ何時までも棚引いていました② おとひめⅤ世の見送りを受けました
こちらは、鮎川浜に設置したプレハブです プレハブ前で奥海宮司さんと西村権禰宜さん
 
感謝状

金華山黄金山神社 船舶寄贈奉納奉告式に参列して(職員の感想)

去る8月4日、東日本大震災の震源地に最も近かった金華山・黄金山神社に「小型船舶(ヤマハSRV・23f)・1艇」と「宅配便受取用プレハブハウス・1棟」をご寄贈申し上げました。

又、ピーク時には20万人訪れた参拝者も、震災年度には8000人まで落ち込み、現在は若干の回復は見られたものの、2万人程度で推移しているとのことで、復興はまだまだ道半ばである事を強く感じさせられました。

震災から4年が過ぎ、その爪跡が徐々に風化されていく中で、黄金山神社の境内は、山津波の土砂により石段が崩壊し、未だに規制線が張られ、立ち入る事が出来ない表参道や、その途中に置かれた重機などを見つけるたびに、離島には行政の目が届きにくい点、多くの参拝者が訪れる「観光地」でありながらも、「宗教法人」のくくりで「政教分離」の観点から一切の公的な震災補助を受けられず、自力でやらなければならない点など、当宮とのいろいろな共通点を感じ、今後の復興活動について考えさせられた一日でした。

権禰宜 宮﨑 徳寛

今回、当宮の被災神社復興支援活動として金華山黄金山神社に船舶1艘とプレハブ1棟の寄贈をさせて頂きました。

黄金山神社は東日本大震災以降、日曜・祝日を除くと定期船の運航がなく参拝者が訪れることも物資の輸送も困難な状況にあると伺いました。

そのような状況にあって、今回の船舶とプレハブを寄贈する事により、「物資の輸送が常時に可能となり、また鮎川浜に設置したプレハブに物資を留置でき復興に向けて力強い支援を頂いた」と奥海宮司は感謝の言葉を仰って下さいました。

黄金山神社には、今まで数千人のボランティアの方々が復旧作業のため来て下さっていますが、震災から4年以上が経過しても復興にはまだまだ時間がかかるとのことでした。今後も、被災地の復興に想い寄せながら少しでも力になれるよう活動していきたいと改めて考えさせられた有意義な1日となりました。

権禰宜 菅原望

金華山は、東日本大震災の震源地に最も近い島であり、当時は桟橋や参道、建物をはじめ日本三大灯籠に称されている常夜灯までもが倒壊し、見るも無惨な忍びない光景だったそうです。

その後、全国から多くのボランティアの方々が来島されて当時は復旧に力添えを頂き、現在でも人数は少なくなりましたが復興に尽力されていると黄金山神社宮司さまをはじめ職員の皆さまにお話しを伺いました。

今回、当宮から寄贈した船舶が黄金山神社の皆様、また参拝者の方々のためにより活用され、少しでも多くの参拝者の方々が来島されることに繋がればと願います。

権禰宜 髙橋泰之

金華山黄金神社での一日は、行く道程にも感慨深いものがありました。決して簡単に辿り着ける場所ではない海に浮かぶ霊山「金華山」へ、大崎八幡宮の北参道駐車場から出発し、道中途中の石巻からの風景は、月日は流れても未だ忘れることができない、そして風化してはいけないあの日3.11の世界がありました。後日、大崎八幡宮「復興と支援の記録」を読み返したり、奥海宮司のお話を思い返しながら、一致団結し震災後の復興に尽力した大切な記録に、まだ続きがある。あらためて感じいりました。

奉告祭においては、厳かに斎行され、祝詞奏上のあと、大崎八幡宮小野目宮司から黄金山神社へ、奉告の寄贈書を、また感謝状が黄金山神社奥海宮司さんから心を込めて手渡され、震災後の復興という同時代の経験から、その困難を乗り越えるべき集う強く結ばれた関係のなかで、「おとひめ丸」のこれからの存在が、よりいっそう期待されました。

そして直会での奥海宮司の話でもあったように、金華山には未だ郵便物や新聞すら届けることが困難である。そして今震災から四年、多くを奪った大震災ですが、震災後も失くしてはいけない支援と感謝がここにはあり、参列させていただいたご縁に感謝の気持ちが高まりました。

このたびは奉告祭を無事斎行し、震災を乗り越えた「おとひめ丸」の活躍を願い、人智の及ばない自然の中で、よりいっそう敬神生活を育み共に歩んでゆくつながりを感じた貴重な一日となりました。ありがとうございました。

出仕 杉田晋平

牡鹿半島の突端に位置する金華山 黄金山神社へ行って参りました。
港から御社殿へ行く途中、野生の鹿が何頭も木陰で休んでいるところを見かけました。御社殿内にて奉告祭を行い祝詞奏上後、巫女舞が奉奏されました。

私自身、祭典で舞をご奉仕しておりますが、自身で舞うのと祈願の際に拝見する舞とは別の雰囲気を感じることができ、とても感動しました。

奉告祭後、神職の方より御由緒のご説明を受けている際、池の中に蛇がいるのを見つけ、「蛇を見つけるといいことがある」と言われているとおっしゃっていました。

このような貴重な経験を得られることができ、大変嬉しく思います。神社に仕える一人の巫女としてこれからも日々精進したいと思います。

仕女 一戸麗姫

今回、金華山の黄金神社の船舶寄贈奉告祭に参列し、震災復興の活動に貢献することが出来ました。今回の震災復興の活動だけでなく、今後も大崎八幡宮の職員としてどのような復興の活動が出来るのか、考えていきたいです。そして、初めての黄金山神社は、とても自然豊かで気持ち良く参拝することができました。

仕女 大學愛海